2015年2月28日土曜日

Bravo!

今日でもう終わるけど、今月は娘にとってなかなか大切な月であった 。彼女は2月生まれだから、19歳の誕生日を迎えるということがひとつ。もうひとつは、ベルリンで開催されるあるダンスフェスティヴァルへの参加である。現在所属の学校からは毎年数人が参加し、参加者の多くがなにがしか受賞を得てきた。留学1年目はそのメンバーに入れてもらえなかったのだが、昨秋、2015年のフェスには参加させてもらえることが決まった。学校公演の練習もあるなか、それとは別枠でフェス向けの練習をするのは時間的にも体力的にも精神的にもかなり負担が大きかっただろう。しかし、そういう「いろいろなことがてんこもりの毎日」を捌くのは比較的得意な我が娘、さほど苦にもせず、朝も昼も夜もあれもこれもそれも、嬉々としてメニューをこなしていたようである。

二人で踊る演目だったので、息ぴったりでないと表現できないし表現したことも見る側に伝わらない。技術面での課題も多かっただろうが、二人のコンビネーション確立のほうがより重要なテーマだったに違いない。幸い、相方とはもともとべったりべたべたの仲良しだったわけでもなく、といって犬猿の仲でもなく、今回のデュオ作品を通じて日に日に相互理解を深めていったという具合で信頼度も高まった。相手がそういう存在の仲間だったということは、娘には精神面で大きな影響があったと思う。何しろヤツはスポ根漫画から飛び出たようなキャラクターなので、チームワークに基づく精神の充実がものをいう。自分とはまったくタイプの違う先輩女性だからこそ、率直な意見交換をすることができ、自分にはないものを豊かにもつその人からズンズン吸収し、ある意味ライバル意識も強まり、パートナーシップを育むことができたと思われる。

19歳は中途半端な年齢かもしれない。日本では20歳を成人と規定しているので、20歳になる前のほぼ20年間は、ボクは、ワタシは子どもなの、という意識をもたずにはおれないだろう。10代で親になる若者もいるし、ある分野のプロとして自立している若者もいる。だが彼らとて、20歳という年齢でいったん線引きされるとき、今日から大人だもんね、的な意識が頭をもたげるのを否定はしないだろう。

娘の場合、昨年18歳をドイツで迎えて、その日を境に成人となり、さまざまなことが一気に解禁になった。私はいちいち「保護者であることの証明」なんぞを送らなくてもよくなった。寮の門限はなくなり、銀行口座も簡単に開くことができた。
そんな状態なのでかの地ではいっぱしの大人扱いはされている。しかしそれは人間としての成熟はまったく意味していない。ドイツに限らず西欧のどの国でも日本の成人式にあたる行事はないそうだが、18歳になったらあれもこれも責任をもって判断して行動しないといかんのよ、というのは自明のことである。いちいち式典なんぞでいわなくても、18歳になったらなったほうはこれからはいちいち四の五の言われないぞと思うだろうし、なった子を見守るほうは何でも自分で考えて決めてちょうだいねと思うと同時に、まだまだ未熟だという自覚ももてよ、というところだろう。
そんな空気のなかにいる娘は「昨日と今日で自分がでかくなったり賢くなったりと急に変わるわけではない」といい、「まだまだ実力も足りないしからだづくりもできてない、心もダメダメで甘えてる」ともいう。至極真っ当な意識のもちかたで結構なことだ。いっぽう、「世の中に知らないことは山ほどいっぱいあるっていうことはわかってるけど、かといって何でも知って理解できるほどキャパないし」と謙虚に振る舞いつつ、関心ないことはどうでもいいと、視野を広げさせたがる親に釘を刺す。
いずれにせよ「まだ」19歳と「もう」19歳という感覚は、いくつになってもつきまとう。責任ある言動、行動をとらねばならないのは、高校を途中でやめて外国へ行くことを決めたときから課せられていることである。そういう意味で娘はそこそこ覚悟はできている。だが自分の未熟さ、技術的な発展途上状態をいいことに、私はまだまだこれからだもんドンマイドンマイと、若さを言い訳にしがちなところがあるのも事実だ。

娘の同級生には高校を卒業してすぐ結婚し、子育てに奮闘している子もいる。バレエ教室で2年先輩だったある女の子はとても上手だったので憧れていたが、ひょんなところから飛び込んできた近況は「現在2児のママ」であった。親になることイコール成熟、ではないけれど、子どもをもつと世界観が変わるぞという話を母親から嫌というほど聞かされている娘にとって、早くも母親になった友達の目に映る世界と自分のそれとは大きく乖離しているのだということは想像できるだろう。

誰もが自分の生きる場所で確実に階段を上っている。その階段に大人と子どもの境などはない。ないけれど、階段の段差が大きいところも小さいところもあるだろう。小さいところを2段3段飛ばしで上るのか、1段ずつ丁寧に上るのか、そんなことによっても成長、成熟の度合いは異なってくる。焦らず、また呑気すぎることもなく、たしかな歩幅を保って上っていってくれればいい。19歳というのはいかにも中途半端で、エネルギーを持て余す。存分に消費すればいいと思う。

さて誕生日を迎えて数日、ベルリンのダンスフェスで娘たちのデュオ作品はブロンズメダルを受賞した。なんとよいニュース! ネームヴァリューのある賞ではないが、参加が決まったときから懸命に努力してきたのは事実だから、頑張りが認められた、なんて小学校で「よくできました」をもらうみたいな言いかただけど、実際そのとおりなので、めいっぱい喜んでいい。ほめてもらったよーわーい。

おめでとう! ほんとうにいい誕生月になったな。ダブルのフェリシテを君に!

2015年1月11日日曜日

Je suis Charlie...

パリのシャルリエブド社襲撃事件のあと、いつものメールに、テロのあったことを知ってるのかどうか尋ねたら、「知らんかったー。パリ、大変なことになってるなあ。こっちでも気をつけまーす」と返してきた。気をつけろ、と私が書いたからだけれども。

大都市居住者は例外なく気をつけなくてはならない。しかし、いったい何に気をつける? 用心するにこしたことはない、そりゃそうだが、何をもって用心することになるのか。いったい何に対して警戒しろというのか。……というような疑問は起こらないのか、娘め。

今回のテロはひとりフランスだけの災禍ではない。イスラム原理主義過激派組織からの、欧米社会に対する宣戦布告だ。彼らはとっくにテロを始めている。報道によれば、フランスの警察はいくつかのテロ行為を、情報を傍受することによって未然に防いできたという。それなのに今回テロリストは包囲網をくぐり抜けた。 警護までつけていたシャルリエブドの編集長は、警備員もろとも銃殺された。テロを「成功」させてしまったこの時点で、イスラム原理主義過激派組織側の勝利であり、西側欧米諸国の負けであった。この機に乗じて、彼らは必ず次々と仕掛けてくる。強化訓練を受け「任務」遂行可能となったテロリストがすでに西側諸国各地にふつうの住民のふりをして潜伏しているのだ。
ネオナチズムが頭をもたげ、つねづねトルコ系住民への差別行動が問題視されるドイツで、イスラム原理主義者たちによるテロが起こらない理由はない。アルカイダは暗殺の対象者をリストアップしているという。暗殺リストに挙がっているのは募った憎悪の対象だろうが、殺されるのは対象者たちだけではない。巻き込まれる周囲の住民、駆けつけた警官。無関係なのに見せしめに殺害される人質。逃亡時に巻き添えに遭う通行人。

そう。テロの標的になどなるはずはない。恐ろしいのは巻き添えに遭うことだ。それはいつだってどこでだって起こりうる。ひとり外国へ行かせた時からその危険性には覚悟しなくてはならない、お互いに。いや、一緒に居たとて、危険とはいつだってどこでだって隣り合わせだ。だから、いちいち心配するのはバカな話だ、きりがない、万に一つもないだろうことで憂うのはやめるべし……と思っていたけれど、親の浅はかさ、落ち着かない。

パリの友人たち何人かとは連絡がつき、危険な目に遭った者はいなかったから安堵したけれど、大きな悲しみ、深い心の痛手に皆押し潰されそうになっている。あまりにも惨いやりかたで、フランス人が心のよりどころにしていた「自由」が血塗られたのだ。

娘は(というか日本の子どもたちは皆)小中高と「人権教育」なるものを道徳の授業とか、課外授業や、社会見学などを通じて受けるのだけれど、いったい、「人権」について何をわかっているのかと思う。なにもわかっていないだろう、たぶん。「人権を守る」ということが「優しくしましょう」「思いやりの心をもちましょう」などというごく個人的な感情の起伏による行動に置き換えられ、それはすでに人権教育の決まり文句になっている。
憎むべき対象であっても人権は守られなくてはならない。
外道でもカスでもボンクラでも、人間には基本的人権があるのだ。
無差別テロを繰り返す犯罪者集団であっても人権はあるのだ。 今回の銃撃犯を射殺した時点で、死刑制度を廃止したフランスにとって、犯罪者を捕らえて裁判にかけられなかったという意味で、二重の敗北だ。
敗北、の意味が、娘にわかるだろうか。我が娘ながら残念だけど、無理だ。娘はもう18歳だけど、そのあたりの認識は欧米の18歳に遠く及ばない。

今、これを書きながらRFI(ラジオ・フランス・アンテルナショナル)を聴いているのだが、ちょうど追悼のデモを取材しているところだ。何人かにマイクが向けられている。12、3歳くらい(たぶん)の男の子の幼い声が答えている。「驚きました。正直、現実とは思えなかった。嘘だろ、と思いました。でもその次に怒りが込み上げました。亡くなったのが新聞の画家や記者と聞いて、これは表現の自由(Liberté d'expression)の侵害だし、僕らの国フランスが第一に大切にしている自由への冒涜だと思いました」

おい、娘。同じことが起こったとき、こんだけちゃんと自分の考えをいえるか?

今頃、とあるバレエ団のオーディションを受験中だ。いや、いいのだ、君には夢中になる対象がある。ただ描いていただけの夢を具体的な目標に変え、それに向かってひたすら努力するがいい。ただ、時には、冷静に自分の足許を見つめ、そこにそうしていられる奇跡を噛みしめてほしい。人の数だけ人生があり、同じように生を受けた人間であるにもかかわらず、信じるものが異なり、師と崇める対象も異なり、命がけで取り組むものが異なり、憎しみをもったり、愛情をもったり、テロリストになったり、テロリズムに命を落としたりする。その紙一重の、襞のような分かれ道の数々を、踏み外すことなく間違うことなく(たぶん)歩んで来れた奇跡を。

2014年12月31日水曜日

Imagines!

「彼女は暇を持て余すのが苦手である」という文は日本語として成立するのか。いや、成り立たないな。「持て余す」という言葉が「処置に困る」という意味だ。ではどう表現したらよいだろう。
「暇を持て余す」=「空いた時間の処置に困る」ならば、「処置に困り果ててどうしたらよいかまったくもってわからない状態が続いている」ようなことを「持て余す」という語を使ってもう少しするっと表現できないか。
「彼女は暇を持て余し過ぎる」……言葉足らずなティーンエイジャーみたいだ。
「彼女はひどく暇を持て余している」……正確なんだけど、うーん。いまひとつ「どうしたらよいかわからない」感に欠ける。
「彼女は暇を持て余すことに慣れていない」……お。これ、いいんじゃないか? 


中高生時代、娘は分刻みで毎日のタイムスケジュールを自己管理していた。部活朝練、学校、部活放課後、お稽古、夜の自主トレ。その合間に食事と間食。定期テストがあるときは放課後の部活の代わりに試験勉強が入る。いつも時間割りをつくって、時刻の目盛りに沿って線を引いて区切り、「英語暗誦」「朝ごはん」「プリント見直し」「バレエ」「ランニング」「腹筋」などの項目を書き込む。そしてほぼ正確に計画したとおりに行動する。我が娘ながら見事なもんであった。もちろんうまくいかないときもある。何かに思いがけず時間を取られたときは、そのぶんをどこかで取り戻し帳尻を合わせた。とくにバレエのレッスンや自主トレの部分で時間の配分が狂ったときは必ず調整した。いっぽう、勉強の予定が狂ってメニューをこなせないことがあっても、それには執着せず放置した。……このあたりがポイントだったな。ま、ともかく、現代の子どもたちは忙しすぎると言われて久しいが、我が娘もご多分に漏れず多忙な子どもだった。

それでも小学生のあいだはめいっぱい校庭や公園で遊ぶのが常だった。
娘が小さい頃は、放課後のグランドは鬼ごっこやボール遊びをする子どもたちが必ずいた。公園に行けば年が上の子も下の子も混じってその時々で手を替え品を替え遊んでいた。つるつるの見事な泥だんごをもって帰ってきたこともあった。友達の振り回したバドミントンのラケットが頭にバシッと当たったこともあった。1年生のとき、玉なし自転車で初めて走れた現場に居合わせてくれたのは、近所の6年生の女の子たちだった。

中学生になると、そんなふうには遊ばなくなった。「遊ぶ」ためには何日も前から周到に用意して時間を確保しなければならなかった。娘が小さい頃は、仕事の休みの日曜日、あてもなく自転車を転がして、どこ行こう? なにしよう? 思いつくまま、鴨川に降りて水に足をつけたり、堀川通沿いの松ぼっくりを拾ったり。図書館で絵本を一緒に読み、飽き足らず抱えきれないほどの絵本と紙芝居を借りて持ち帰って、毎日毎夜読んだ。だが、そんなふうに、母の私と娘の共有できる時間は急速に減ってしまい、それぞれがそれぞれの役割を果たすために時間を使うようになっていった。私と娘はつねにかかわりあってはいるが、一緒に行動する時間といえば朝食ぐらい、という状態だった。今日も晩ご飯、一緒に食べられへんのか、という祖母のつぶやきを彼女はどう聞いていただろうか。食卓をともにすることを無上の喜びとしていた娘が、そのつぶやきに心を痛めないはずはなかった。だからこそ、三人揃っての夕食のチャンスは、絶対に譲らず確保した。稀なことだったが、ともに台所に立ち、食事の支度をすることもあった。しかし、そんなことは稀だった、ほんとうに。「今夜、8時半に帰ってご飯は9時には食べ終えるから、頼むで!」といった調子で毎朝タイムスケジュールを私に告げるのが日課だった。
そうした生活のおかげで、こなさなければならないメニューが盛りだくさんなときほど、娘は難なく消化した。高校に進学するとあれもこれもと生活はさらにタイトになったが、娘はむしろ生き生きと活力を増すばかりだった。一日にどれほどあれこれと詰め込んでもまったく苦痛にならないのだった。

ところがその逆の場合はまったくサマにならない。
暇であることに耐えられない。
寝るしかない。だから寝てばかりいた、たまの何もない休日などは。
本でも読みぃ、というと読んでみるものの、すぐ睡魔に襲われるのが常だった。
暇でいることが苦痛だった。
「暇で、死ぬ」
和室の畳に大の字になって寝転がって、そうつぶやいたことがあった。
贅沢もん。
そうはいうものの、これは実際ほぼビョーキだな。と、私は思っていた。

案の定、留学先では時にこの「暇すぎて死にそう」状態に陥っている。
学校は、休みの日もある。レッスンが午前中で終わるという日もある。ルームメイトが留守のときもある。友達が帰省中のときもある。自分の相手をしてくれる「誰か」も「何か」もないとき、どうしたらいいかわからなくなるのである。

学校が休みのときは、ほかのスタジオのオープンクラスに参加している。
街でウインドーショッピングするのは大好きだ。
美術館や古い城館の多い街だから、見学にもよく行く。
友達から流行りの小説本を借りて読んでいる。
寮にはオーディオルームがあるのでDVD観賞なんぞもよくする。

「でも暇や。1日24時間あるし。ずっと寝てられへんし」(最近の娘のメールより)

そういわれても私は、暇を持て余すような事態に長年陥っていないので、よいアドバイスはない。私の若い頃は暇さえあれば漫画を読み、漫画に飽きたら本を読み、お小遣いのあるときは映画館で名画3本立てを観た。どれもつまらないときは、ひたすら絵を描いていた。そんなことでじゅうぶん、時間をつぶせた。たとえば友達との約束が直前になって流れてしまって予定に思わぬ穴が空いたときなど、たしかにいきなり現れた手持ち無沙汰な空白を持て余すことがある。読みかけの本もない、そそられる映画も芝居もやってない、そんなときは、ぼーっと座り、コーヒーでも飲みながら、想像する。

もし友達と会っていたら。彼が、彼女が着ている服。履いている靴。かけている眼鏡。よく会う人が相手なら想像は乏しくなるが、ひさしぶりだったり、特別な約束だったりすると、逃がした魚は大きい、じゃないけど、やたら想像はたくましくなる。

そんな想像は意味なく虚しい、無駄なものだと笑われるだろうか。私は、そうは思わない。そんなふうにして想像し始めるととめどがない。友達はいつの間にか結婚衣装に身を包みシャガールの絵のように空を飛んだりする。私はいつの間にか友達の肖像画を描く画家になっていたりする。私の個展を観にきたロートレックが、いいモデルを紹介しようといってパリのキャバレーに連れて行ってくれ、艶やかに踊るジャンヌ・アヴリルと知り合い、互いの身の上話に花を咲かせてマブダチになる……。あの時代のモンマルトルにいたら、私は何をどう表現する人間になっていただろうか。ロートレックが大好きだけれど、もし同時代人であっても私は彼を愛しただろうか。早すぎる死に、泣いただろうか。

「お母さんは時間があったらそんなこと考えてんの?」(最近の娘のメールより)

いや、全然考えてない。
我が身を振り返れば、ほんとうに、そんなふうに、何の役にも立ちそうにない想像ごっこに時間を費やすことなど、ずっとずっとやっていない。
だけど私も、上で書いたようなバカな妄想ごっこに耽ったのは、大学時代と、留学時代がいちばん多かったように思う。いちばん多かったというより、ずっとそんな毎日だった。有り余る時間を、本と映画と芝居とライヴと酒に費やしても、まだ時間はいっぱいあった。モンペリエにいたときは、水道橋の上の公園で、陽の落ちるのを待った。その場所では空一面を染めながら沈む夕日を眺めることができた。夕日を見ながら、授業で覚えたフレーズを暗唱したりもした。前夜のタンブールの音を反芻したりもした。そんなふうに時間が過ぎていくほどに、私の心はモンペリエではない別のどこかにあったりした。気がつけば夕焼けは星空に変わっていて、公園を降りてすぐのところにあるカフェが賑わっていた。
珠玉のような、時間だった。
娘は、こんなふうに時間を費やすことを罪なことのように感じるのだろう。それは違うよといっても、すぐにはピンと来ないだろう。慣れていないのだ、時間を持て余すことに。だが持て余す時間のあることは素晴しいことなのだ、ほんとうに。
そのときは、無為にしか感じない、いたずらに過ぎていく時間を捉まえられない自分がただ未熟者に思えて惨めになる。だが、そんな気持ちもひっくるめて、若いときにしか生きることのできない得難い時間であり生であるのだ。大なり小なり、誰にもある。持て余すほどの時間。ハンドリングできない無意味。手応えのない空白。そんなものどもに直面したとき、ただ想像の翼を広げるだけで、無意味は宝石になる。想像しろ。何でもいい。姫になった自分、絵の中で踊る自分、革命の旗手となった自分、メジャーリーグでホームランを打つ自分。すれ違った幸せそうなカップルの心の中。ベンチで寝るホームレスの見る夢。向かいのテーブルでスマホをいじるイケメンの裸のお尻。想像してみろ。想像は想像を呼ぶ。物語は絵巻物になる。

いくつもの架空の絵を頭の中で描くうち、絵は絵に終わらず身体化されて、やがて自分の内からほとばしる表現となって外へ飛び出していく。それを意識化できたときに、もしも舞台人として生きていれば、唯一無二の自分の踊りとして、あるいは振付や演出として、舞台作品としてつくることができるだろう。

暇そうやな。
想像しろ!

2014年12月27日土曜日

Les petits rats 7



ここ数年手足の冷えが耐え難いものになっている。若い頃に限らず中年になっても、寒がりではあってもいわゆる冷えを苦痛に思うようなことはなかった。なのに、靴下は重ね履き、ズボンの下にスパッツまたは厚手タイツ、足首にはレッグウオーマが欠かせない。手は、手袋をしていては何もできないので、手の甲まで覆うハンドウオーマを重ねづけしている。でも、冷たい。冷たくて乾いてカサカサがさがさである。けっきょくは、寄る年波なのか。
ところでレッグウオーマもハンドウオーマも自分の手編みである。編んだのは何年も前だ。昔編んだものの残り毛糸や、あるいはもう着なくなった毛糸ものをほどいた糸で編み直したものなど、筒状にゴム編みでまっすぐ編むだけなのですぐに作れてしまうから、やたらとそういうものが私の手許にはある。
ここ何年か愛用しているのは、娘が幼い頃に編んでやったバレエのレッスン用のレッグウオーマだ。小さかった彼女が着けると膝上まですっぽり覆うことのできたレッグウオーマも、私が着けるとふくらはぎすら覆えない。そんなわけで足首あたりでたるませておく。温めたいところを重点的に温めることができるので、これでいいのだ。
こういう温め小物を使い出すともう着けずに過ごせなくなる。冬はどんどん寒くなる。着ても着ても寒いし、こすり合わせてもカイロを握っても手は冷たい。でも足は、五本指靴下+ふつうの靴下+スパッツ+レッグウオーマで、とりあえず落ち着く。

娘のクラスメートの男の子に、冬でも半袖半パンツで通学している子がいた。いつの時代もそんな超人的な子どもがひとり、ふたりいる。娘も、どちらかというと小さい頃はめっぽう寒さに強かった。寒い寒い〜と、帽子やマフラーをやたら着けるのが好きで、帽子、マフラー、手袋は私が編んだものを中心にいくつもいくつも持っていた。だが実際はそんなに寒がりではないので、ひとしきり遊び、温まったからだで帰る時には防寒具のことなど忘却の彼方だ。お気に入りの、母ちゃん手編みの小物たちを、学校に忘れたまま行方不明にしてしまったり、ふざけながらの帰り道に落としてしまってもう一度引き返しても見つからなかったり、そんなこともしょっちゅうだった。

そうして頻繁に失くされても、編むことそのものが楽しい私は、へこたれずに次々と編み続けた。バレエ小物はレッグウオーマくらいしか編むものがなかったので、いくつか編んだけれど、やっぱり、レッスンが始まるとすぐにからだが温まってしまうので外してしまい、けっきょくあまり必要なかった。そうこういってるうちに身長が伸びて、レッグウオーマも長さと幅が必要になるといくら単純な編みかたでも時間がかかるのでもうしなくなった。娘のレッグウオーマはあまりくたびれないまま私に引き継がれ、私が履き倒しているので、近年かなりくたびれてきている。

冬になり、娘のレッグウオーマを着ける頃になると、これを着けてレッスンスタジオに入っていく娘の後ろ姿を思い出す。ほかの子も、それぞれ思い思いのレッグウオーマをつけ、いっぱしのダンサーのように、背筋を伸ばし、ステップを踏んだ。幼く、ぎこちない動きが、やがて彼ら彼女らにとって、起床して歯を磨き顔を洗うといった一連のお決まりの動作のように、ごくあたりまえの普段の動きになっていく。そんな日の来ることなど想像もつかなかったけれど、いまたしかに娘はそういう日常を送っている。過ぎてみて月日はなるほど矢のごとく飛んでいくと実感するいっぽう、矢のような光陰の、その濃密だったことにも、振り返れば愕然とするのである。普段着を脱ぎ、タイツを履き、レオタードを着て、髪をシニヨンにまとめ、シューズを履き、レッグウオーマを着ける。そのひとつひとつの「儀式」のあいだ、子どもたちの脳裏には何が去来していたのか、娘はいったい何を思って「装束」を着け、稽古場に向かったのか。いまは知る由もない。彼女は夢中だった、いつも。そして私も、夢中だった。その夢中の中身は、ほとんど忘れてしまった。いったいどんな夢を見ていたのだろう。娘の道はもう娘のものだ、私は傍観者にすらなれないだろう。ただこうして、娘の足も温めたレッグウオーマを、冬が来るたび身に着けて、何考えてたんだろうな、あたしもあの子も、みんなみんな、まったく、などと思いながら、やはり、小さかった娘の稽古着姿を目に浮かべてひとり、笑いを噛みしめるのだった。


2014年9月30日火曜日

Tu peux danser!

今月発売されたさだまさしの新しいアルバムに、「君は歌うことが出来る」という歌が収録されているらしい。ある日ラジオから流れてきて知ったのだが、曲の前にパーソナリティの女性が「とてもよい歌です」と紹介したので聞き耳を立てていたら、ジャンジャカジャーンとやたら賑やかな伴奏がいささか耳障りである。なんだかうるさそうな歌だと思っていると、いやいやどうしてなかなかよい歌詞である。さすがはさだまさし、というところだろうか。聞けば編曲はアルフィーの高見沢らしい。私はアルフィーにはまったく興味をもたないままオバハンになったのでそういわれてもその特徴を思い描けないのだが、噂によればこの曲のイントロだけで「この音は高見沢だな」とわかる人にはわかるらしい。そうなんだ、へーえ。しかし、やっぱしちょっとうるさいので、この「君は歌うことが出来る」という歌は音に耳を塞いで歌声だけに耳をそばだてるべしである。

君は歌うことが出来る、というリフレインを「君は踊ることができる」に代えて、ダンサーを志すすべての若者に贈りたい。君はなぜ踊るの? なぜそれほどまでに踊りたいの、踊りたいという欲求は、何を起爆剤にしているの? きっと、理由なんかない、ただ好きだから、と君は答えるだろう。だけど、その「好きだから踊る」という純粋な気持ち、強い思いを、目の前にある目障りな障害物をちょいとのけるためだとか、怒らせるとちょっとマズい身近な誰かのご機嫌とりのためだとかに使うんじゃなくて、遥か未来で出会うはずの尊い誰かに向けてほしい。ほんの少し顎を上に上げれば君のまっすぐな視線は、その先が遠くへ遠くへ到達するはずだ。親にも、教師にも、あるいは友達にも、踊ることが好きなんだという気持ちをぶつけてきただろうし、これからもぶつけていくだろうけど、君が踊るほんとうの理由がそんな手近なところでうろうろしてちゃいけない。君が好きなことに全力で打ち込み体現する姿は、いつか君の踊りを観た人に限りない希望や勇気を与えるかもしれない。君の無言の身体表現の中に、力強いメッセージを読み取る人がいるかもしれない。君の手と、足と、ほとばしる汗に、忘れていた情熱や愛が再び体内にわき起こるのを感じるかもしれない。まだ見ぬ誰かの深い感動のために、君は踊ることができる。何もできない人間なんかない。自分は無力だ何もできないと卑下する態度は謙虚に見えて実は何もしないで目を塞いでいるための傲慢な言い訳だ。人は必ず何かを行い、何かをもたらすことができる。「できることなんか何もないよ」というのは浅はかな逃げだ。声の出る人は歌うことができる。体の動く人は踊ることができる。筆をもてる人は絵を描くことができる。歌を詠むことができる。心をもつ人には祈ることができる。
君は踊ることができる。



君は歌うことが出来る

作詞・作曲 さだまさし

君は歌うことができる
知らない名前の雨や
知らない季節の花や
知らない風の匂いを

君は歌うことができる
誰も使わない言葉で
誰も知らない言葉で
誰にもわかる言葉で

ありきたりの愛の言葉や
使い古された励ましの言葉
そんな言葉を捨てて
君は君の言葉で
歌うことができる

目の前に何者かに
決して媚びて歌を売るな
遥か未来で聴くはずの
尊い誰かのために歌え

いつか君の歌が遥か
時を超えて響くために
その遠い遠い未来へ
必ず届くように歌え

君は君の言葉で歌え
自分の声で泣きたいなら
僕は僕の言葉で歌う
自分の声で泣きたいから

君は祈ることができる
愛する人のために
見知らぬ誰かのために
自分以外のすべてのために

君は祈ることができる
傷ついた人のために
傷つけた人のために
それを恨む人のために


(後略)

2014年8月24日日曜日

Vacances d'été

夏休み。
留学先から一時帰国している娘。

先輩ダンサーの舞台を観にいったり、高校の先生に挨拶に行ったり、陸上部に顔を出したり、同級生とプチ旅行したり、幼馴染みとご飯食べたり、と忙しい。久しぶりの故郷が楽しくてしょうがない、という様子だったが、それも2週間くらい。3週めに突入した現在はもう飽きてしまって「早よ学校に戻りたいわあ〜」などとやたらつぶやく始末。
ほげーと過ごせばいいのにじっとしていられない性分で、毎日、人に会うか街へ出るかしてちっとも家でゆっくりなんかしていない。誰に似たんだか。母は暇さえあればごろ寝を決め込むというのに。

友達とご飯食べてたら口の中でガチッと音がして、何かと思えば奥歯が欠けた、という。生まれてこのかた虫歯ゼロを誇って来た娘だが、とうとう、削って銀歯を補填する羽目になった。いままで歯に何も問題なかったのは幸運に尽きるが、きっとこれから先はけっこう歯のトラブルに悩まされるに違いない。なんつっても私の娘だからな。

私は幼い頃からしょっちゅう歯医者通いをしていた。歯並びはすこぶる悪く、きれいに並んでいない歯はお約束のように必ず虫歯になり、ある日突然欠ける。大人になってからもそんな生活を繰り返した。私は乳製品が嫌いだし、カルシウムが大きく不足していたかもしれないが、こと歯磨きにかんしては真面目にきちんと取り組んでいたはずだった。なのに、私の歯と歯茎はいつもとても不健康なのだった。
痛みを感じて歯医者を受診するたびに、歯周病の恐怖を説かれ、定期検診の必要性を説かれた。でも私は定期的に歯医者ヘ行くなんてまっぴらだった(みんなそうよね?)。そういう心がけだとじきに歯周病になるぞとイケズな歯科医にいわれつづけたけど、いままでなってないもんね。
20年くらい前に「10年後くらいには総入れ歯を覚悟してください」なんていわれて、その「10年後」が到来したときは「このままだっとあっという間に総入れ歯ですよ」といわれた。しかし、それからさらに10年経った今、歯科医は既存の歯の健康を維持するために「部分入れ歯」の導入を薦めた。でも、いくら「部分」でも、「歯を付け外しする」という行為だけで一気に老け込みそうだ。そう思ってそのとおりのことを述べる。
「歯を付け外しするのって、ちょっとまだやりたくない気分かな……若ぶる気はありませんけど」
「だろうね。だよね」
「この次、もうにっちもさっちもいかなくなったら部分入れ歯でも総入れ歯でも、諦めます」
「そうだね。今回部分入れ歯は廃案、ブリッジにしましょう」

歯の治療の顛末は、昔話も含めて娘によく話して聞かせた。そのたび娘はフンと鼻で笑って「おきのどく〜」などとつぶやく。おい、きみにもこういう運命が待ち受けているかもしれないのだぞ。
「なんやかんやいうてもけっきょく入れ歯してへんやん。まだイケてるってことやん。若いっていうことやん」と激励のような慰めのようなセリフを吐いたあと、「そやし、ウチも大丈夫やわ、絶対」と自信たっぷり。

しっかり噛む。人間はその体力・体格をしっかり噛んで食うことで維持している。噛んで砕いて、飲み込む。噛んで砕くことをおろそかにしたら飲み込む時につっかえる。無理に飲み込んだら内蔵が消化吸収するのに差し障る。
「噛む」は基本であり、最重要アクションである。歯の丈夫な人は健康で長生きだし、すぐれたアスリートはきっと頑丈な歯を維持しているだろう。
現在娘は腹八分目を心がけていることもあるが、食事の量は少ない。だが、非常によく噛んで食べる習慣が身についているので、わずかな量の食事を長い時間かかって食べることになる。娘がまだ小学生のときは、クラスメートが残す給食も全部引き受けるほど大食いだった。また、(これは日本の公教育の多大な欠陥だと思うが)昼食時間が非常に短く、早く遊びに行きたいこともあって、ぱくぱくぱくごくごくごくっと食べていたようである。私が口うるさく「よう噛みや」と呪文のように唱え続ける家での食事も、娘は早く食べていた。だが中学生になり体がどんどん成長してくると、早食いは太ると誰かに吹き込まれたのか、大食いながらゆっくり食べるようになった。するとほんとうに体はムキムキ隆々と成長し、まさにひと噛みひと噛みが血肉になっていた。惚れ惚れするような筋肉が、全身を覆っていた。

残念ながらムキムキ筋肉マンのような体はバレリーナには必要ないので、高校生になって娘はダイエットを敢行した。極端に食事を減らしたが、栄養欠如にならないように食品を厳選して、そしてやはりよく噛み、体のすみずみまで送り込むように、ゆっくり食べた。
ひと口ひと口を大切に、食べた。
おかげで、拒食症だとか、精神を病んでしまうといった極端なダイエットにありがちな副作用には遭わずに済んだ。それは本当によかったと思っている。
しかし、やはり痩せたことで体全体の「巡り」が衰えた。冷えがちになり、しもやけなど血行の悪いことが原因で起こる現象が頻発し、症状もひどかった。免疫能も低下し、感染性の外傷は容易に悪化した。今、娘には、食事制限は御法度で、きちんとバランスよく食事を摂ることが至上命令である。本当はスイーツ厳禁なのだが、10代女子にそれは不可能(笑)ということで、ちゃんと栄養たっぷりの食事をすることを守るなら少しは食べてもいい、ということになっている。

歯を大切にして、健康な歯でひと噛みひと噛み大事に食べて、摂った栄養を無駄なく体力と体格の糧にしよう。明日の君は今日食べたものでできているのだ。だからホンマに虫歯には気をつけてな。

2014年7月7日月曜日

Les petits rats 6


ある年の発表会楽屋風景。舞台メイクは、中学1年生になったら自分で行うよう指導を受ける。それまでは、教室の講師陣が子どもたちの顔をひたすら「描き、造る」。なかなかスゴイ顔になるのだが、舞台に立つとそれほどコテコテに描いているようには見えないから不思議だ。ただし、子どもたちはそれぞれぐっとその母親の顔に近づいて見える。「そっくりやね」と、母親たちはお互いを慰めるでも納得させるでもない、なんだか中途半端な共感と連帯感を覚えるのであった(笑)。

1枚めの写真で娘のメイクをしてくれている講師は、バレエ学校を卒業後すぐ当教室でレッスンを受けながら指導助手を務め、バレエ教師としての経験を積んできた人だ。緩急を使い分け、子どもたちをよく笑わせ、叱るときはびしっと容赦ない。教師としてもダンサーとしても一貫した考えを持っていて、それは学園長である自分の恩師と食い違うことも時にはあったようだが、意見は意見として述べても師の影はけっして踏まない人だった。だから学園長も彼女を重宝し、可愛がった。もちろん、生徒にも慕われた。
娘もこの講師が大好きだった。いつか、娘を評して「すごく、わかってくれるんですよ。私の指摘したことの真意とか、私の言いかたがマズくて伝わらないんじゃないかと思ったときも、ちゃんと意図を読み取って、理解してくれる。そして次に動いたときにはその結果をすぐ出してくれます」と言ってくれた。いいことばかりを過大に述べられたとしても、親は嬉しい。娘に伝えると「先生も、ウチが訊きたいこと、全部言わんでもわかってくれはる。どう動いたらいいか、今の動きのなにが悪いんか、訊きたいけどうまく言葉を組み立てられへん時あるねん。でもみなまでいわんでもわかってくれはって、教えてくれはる」という。なるほど、キミタチ、以心伝心。相思相愛(笑)。

娘は出発前、この講師の舞台を最後に見て涙が止まらなかったと言った。ほかの先生との別れは辛くないけど……。講師は離島の出身で、昨年度限りで教室を退職し、故郷で自分のバレエ教室を開業する運びとなったのだった。昨秋、その計画を公にする前に、日本を離れるうちの娘にはこっそり告げて、「もうこの教室では教えていないけど、たまには戻って先生たちに顔を見せたげてね。そして私の教室も覗きにきて」

結婚や出産、あるいは新天地を求めて去っていった先生たち。みんな若く美しい女性たちだ。その20代、30代の輝きを増すばかりの時間を躾のなってないワガママな子どもたちを教えることに費やし、時には親たちの苦情や陳情(?)にも対応し、人生何事も経験とはいえ並大抵ではなかったことだろう。去っていかれた先生たちも、今も教え続ける先生たちも、それぞれが幸せであってほしいと思わずにいられない。講師たちの振る舞いや生きかた、踊りに向かう姿勢はそっくりそのまま子どもたちにとって最も身近な手本であり、事例集でもある。感化されやすいうちの娘などは幾度も「○○先生みたいになる」と誓いを立てた。ある重要なタイミングでドンピシャなアドバイスや叱咤を受けると、いつまでも心に残る。故郷へ戻った講師は、幾つもの至言を娘に残したという。ただ娘がいうには、それほど重要な言葉を相手に向かって投げたとは「たぶん意識したはらへん」そうだ。

効果的な指導とは得てしてそんなものかもしれない。大上段に構えて「どうだこれから大事なことを教えてやるぞ、よく聞けよ」みたいな物言いで臨むと弟子は逃げる。というより、そんなものは師弟関係ではない。師であり弟子であるというのは、お互いに腹を探っているとでもいおうか、そのココロは、その真意はと、お腹の裏側を読み取ろう、その言葉の行間を吸収しようと、ある一定の距離を保ったまま、互いを信じることである。多分に弟子のほうが一方的な片思いであるけれども、自分を信じる弟子に師は応えようとするものである。弟子にとって師の言葉は、それが戯れ言やオヤジギャグでも信じられる。ヒントになる。そして自身に反映できたとき、弟子であることを実感できる。

バレエなど身体系のお稽古事では、小学生のうちはこうした「師弟関係」がごくごくシンプル&ピュアに形成されている。だから子どもたちは素直にすくすく伸びていくのである。講師の優劣よりも、どちらかというと子どもたちの素直さ、伸びしろの大きさがものをいう。一心に打ち込み、先生みたいになりたいとわかりやすい夢を描くことが、最大の糧なのだ。

願わくば、場所が変わっても、自分にとって最良の師といえる人と再び出会い、師から可能な限り吸収して成長の糧にしてほしいもんだ。