2014年6月18日水曜日

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自慢じゃないけどヴィム・ヴェンダースにインタビューしたことがある(自慢だけど。笑)。とはいってももう16、7年前のことだ。偉大な映画人であり、当時の日本でもすでに著名な人であった。と、こんな書きかたをするのは、すぐれた映画をつくる人が著名であるとは限らないからだ。とりわけ日本では、出演俳優ばかりにスポットがあたり、つくる人、描く人はどうも裏方扱いされる傾向にある。ここ数年、ようやく監督の名前が先行する映画が出始めたように思うけれども。
それはともかく、ドイツ人映画監督で誰を思い浮かぶ?と訊かれて「ヴィム・ヴェンダース」と答える人がそれほどいるとは思えない。といってほかの監督の名前を挙げられるか? フリッツ・ラングやペーターセン。え、ドイツ人だったの?なんて声も聞こえてきそうだ。なんてこと、と嘆く映画ファンもいるだろうけれど、知らないということ、関心がないということはこういうことなのだ。
『パリ、テキサス』で日本の一般映画ファンの心もとらえたヴェンダースだが、観客はこの映画を観る時に撮ったのがドイツ人映画監督であるという知識は必要ない(ほんとはそのへん意識したいんだけどさ)。映画にドイツは全然出てこないからだ。極端な大ヒット作『ベルリン 天使の詩』によってその名声は世界中に轟いて、ヴェンダースは世界のあちこちを舞台に独特の視点で作品を撮るドイツ人映画監督だと、日本でもようやく認識されるようになったのではないか。というより、映画関係者にとって「神」に近い存在となって初めて、一般人にとっての「あ、その映画監督知ってるよ」くらいの著名な映画監督となる、といってもいいだろう。

97年、大阪で開催される映画祭の特別ゲストとしてヴェンダースが来る、と聞き私は小躍りした。私も単なる一般映画ファンなので、ヴェンダースについては何も知らなかった。『パリ……』と『ベルリン……』を観ただけだ。だけだが、元来アンデパンダンな映画を愛好する者にとってやはりこれらの作品は革命的な存在だった。
さらには、やはりつくる人の話はなにがなんでも聴きたい、という欲求があった。
大阪の映画祭の機会には何度か監督や撮影カメラマンの取材をしたが、つくり手の話を実際に聴くと映画というものへの愛が一気に深まるのを実感した。スクリーンの向こう側に敷かれた幾重ものつくり手たちの意図が映画を醸成しているかと思うと、その厚みや織りに思いが延びて感動が膨らむ。そんな経験から、ヴェンダースが大阪に来るなら絶対に話を聴きたい! と思ったのだったが。

「俺たちのために時間なんて取れないって」と編集長。映画祭主宰者側からの連絡は「無理」だった。主宰者は編集長と友達なのに。「なんとかならないのかなあ」と私。
『ベルリン……』のあと、日本における上映ではメガヒットを記録したものはないのに、彼が来日するとなるとそれはもうVIP中のVIP、破格の扱いだった。TVや大新聞、専門誌の取材が目白押しだった。はあ〜、観客として舞台挨拶を観る程度かあ。
しかし、朗報来たる! 「××TVの番組撮影の直前に数分間取ってくれることになったよ」。やった!
「俺、その日は行けないから、行ってくれよ」と編集長。「へ?」と私。「ヴェンダースのいい表情も、撮ってこいよ」「へ? 私ひとりで行くの? え、でも何語で話すの、私、英語できないよ」「ヴェンダースはフランス語ペラペラだよ」
いや、だからって、そんなビッグゲストにひとりでなんて……と大喜びしたのも束の間、大きな不安に苛まれる私。編集長は愉快そうに笑って「心配すんなよ。インタビュアーはもうひとりいるからさ」

もうひとりのインタビュアーはパリ在住の大学院生だった。日本人女性で、映画論だかなにかを研究している。そんな学問が成立するのね。研究論文執筆のために、映画のつくり手を直接訪ねて取材を重ねていた。ちょうど帰省するのと、ヴェンダースの来日とのタイミングが合い、こちらの取材に同行できることになったのだ。
事前に彼女がヴェンダースに訊ねたいことをリストアップしてきた。時間がないので話をどんどん突っ込んでいくわけにはいかない。しかし、もう二度とない機会だろうからこれだけは訊きたい、という彼女の意向は尊重したかった。回答の内容も想定し、こうきたらこう訊く、そう答えたらこっちへ転換、みたいな「予行演習」もした。
しかし、多くの場合そんなものは当日実際に相手と対峙すると吹っ飛んでしまうのだ。

当日、ヴェンダースの宿泊するホテルのロビーヘ行くと、映画祭実行委員長が私たちに「7分間」と言った。みじかっ。「君たちが取材している間、TVのクルーが機材のセッティングでガチャガチャやるけど、我慢してくれよな」

取材用の部屋ヘ行く。待つこと数分。ヴィム・ヴェンダースが実行委員長と一緒にやってきた。私たちは簡単に自己紹介をした。ヴェンダースは彼女に向かって「パリで映画の研究をしてるの? テーマは何?」なんてのんびり話しかける。彼女はその問いに手短に答えたあと「すみません、ムッシュー。時間がありません」「え、そうなの? 何分間?」「7分です」「おやおや」
私はすでに柔和なヴェンダースの横顔に向かってシャッターを切り続けていた。
心得たヴェンダースはこちらの問いに的確に明快に答えてくれ、その答えに対してインタビュアーがさらに質問を重ねてくるだろうことも想定して話を続けてくれた。取材慣れしているといえばそれまでだが、私たちのような学生と素人に対し、映画人としての自分の立ち位置、自分が映画を撮る意味、映画界になお残る悪弊などあますところなく語ってくれたのである。7分の間に。

《ヨーロッパの映画はアンデパンダン(独立している)です。作家の意図は完全に尊重されます。》

映画には巨額の製作費がかかる。映画のつくり手はスポンサーの意向を無視してはつくれないとしても、誰がそのことを責められるだろうか。しかしヴェンダースは、資金提供の源がどこであれ、それがいくらであれ、それに左右されるものはアンデパンダンではないと断言する。ヨーロッパでは当時すでに国境を越えた合作映画が盛んに製作されていたが、それじたいは喜ばしいことであり、いずれ国籍など問われることのない時代が来るだろう、とも言っていた。そのいっぽう、規模が大きくなり過ぎて、またスポンサーへの気遣いから作家が自分の表現を見失うとアンデパンダンに逆行する。そのとき「作家はアイデンティティを失います」

なぜ、ヴィム・ヴェンダースとの7分間を思い出したかというと、最近『Pina』のDVDを借りて観たからだ。

ピナ・バウシュの踊りはとてつもない。ピナはそれまでのダンスの常識を次々に破った人だ。ピナのもとで踊るダンサーたちの肉体の迫力にも圧倒される。
しかし、激しく奇妙な振り付け、予想を裏切る演出の続く舞台はたしかにエモーショナルだが、その映像の素材感、構成や撮影手法がたいへん「ヴェンダース的」で、あまりの懐かしさに胸がいっぱいになったのだった。静かな、ピナ・バウシュ追悼の映画だった。ピナもまた、意志を貫き通した表現者だった。ヴィム・ヴェンダースは、いち表現者としてピナ・バウシュの創作への姿勢に通底を感じていた。映画には、同志をなくしたヴェンダースの悲しみが満ちてスクリーンからつつつ、とこぼれるかのような、そんな湿度が感じられる。

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