2014年12月27日土曜日

Les petits rats 7



ここ数年手足の冷えが耐え難いものになっている。若い頃に限らず中年になっても、寒がりではあってもいわゆる冷えを苦痛に思うようなことはなかった。なのに、靴下は重ね履き、ズボンの下にスパッツまたは厚手タイツ、足首にはレッグウオーマが欠かせない。手は、手袋をしていては何もできないので、手の甲まで覆うハンドウオーマを重ねづけしている。でも、冷たい。冷たくて乾いてカサカサがさがさである。けっきょくは、寄る年波なのか。
ところでレッグウオーマもハンドウオーマも自分の手編みである。編んだのは何年も前だ。昔編んだものの残り毛糸や、あるいはもう着なくなった毛糸ものをほどいた糸で編み直したものなど、筒状にゴム編みでまっすぐ編むだけなのですぐに作れてしまうから、やたらとそういうものが私の手許にはある。
ここ何年か愛用しているのは、娘が幼い頃に編んでやったバレエのレッスン用のレッグウオーマだ。小さかった彼女が着けると膝上まですっぽり覆うことのできたレッグウオーマも、私が着けるとふくらはぎすら覆えない。そんなわけで足首あたりでたるませておく。温めたいところを重点的に温めることができるので、これでいいのだ。
こういう温め小物を使い出すともう着けずに過ごせなくなる。冬はどんどん寒くなる。着ても着ても寒いし、こすり合わせてもカイロを握っても手は冷たい。でも足は、五本指靴下+ふつうの靴下+スパッツ+レッグウオーマで、とりあえず落ち着く。

娘のクラスメートの男の子に、冬でも半袖半パンツで通学している子がいた。いつの時代もそんな超人的な子どもがひとり、ふたりいる。娘も、どちらかというと小さい頃はめっぽう寒さに強かった。寒い寒い〜と、帽子やマフラーをやたら着けるのが好きで、帽子、マフラー、手袋は私が編んだものを中心にいくつもいくつも持っていた。だが実際はそんなに寒がりではないので、ひとしきり遊び、温まったからだで帰る時には防寒具のことなど忘却の彼方だ。お気に入りの、母ちゃん手編みの小物たちを、学校に忘れたまま行方不明にしてしまったり、ふざけながらの帰り道に落としてしまってもう一度引き返しても見つからなかったり、そんなこともしょっちゅうだった。

そうして頻繁に失くされても、編むことそのものが楽しい私は、へこたれずに次々と編み続けた。バレエ小物はレッグウオーマくらいしか編むものがなかったので、いくつか編んだけれど、やっぱり、レッスンが始まるとすぐにからだが温まってしまうので外してしまい、けっきょくあまり必要なかった。そうこういってるうちに身長が伸びて、レッグウオーマも長さと幅が必要になるといくら単純な編みかたでも時間がかかるのでもうしなくなった。娘のレッグウオーマはあまりくたびれないまま私に引き継がれ、私が履き倒しているので、近年かなりくたびれてきている。

冬になり、娘のレッグウオーマを着ける頃になると、これを着けてレッスンスタジオに入っていく娘の後ろ姿を思い出す。ほかの子も、それぞれ思い思いのレッグウオーマをつけ、いっぱしのダンサーのように、背筋を伸ばし、ステップを踏んだ。幼く、ぎこちない動きが、やがて彼ら彼女らにとって、起床して歯を磨き顔を洗うといった一連のお決まりの動作のように、ごくあたりまえの普段の動きになっていく。そんな日の来ることなど想像もつかなかったけれど、いまたしかに娘はそういう日常を送っている。過ぎてみて月日はなるほど矢のごとく飛んでいくと実感するいっぽう、矢のような光陰の、その濃密だったことにも、振り返れば愕然とするのである。普段着を脱ぎ、タイツを履き、レオタードを着て、髪をシニヨンにまとめ、シューズを履き、レッグウオーマを着ける。そのひとつひとつの「儀式」のあいだ、子どもたちの脳裏には何が去来していたのか、娘はいったい何を思って「装束」を着け、稽古場に向かったのか。いまは知る由もない。彼女は夢中だった、いつも。そして私も、夢中だった。その夢中の中身は、ほとんど忘れてしまった。いったいどんな夢を見ていたのだろう。娘の道はもう娘のものだ、私は傍観者にすらなれないだろう。ただこうして、娘の足も温めたレッグウオーマを、冬が来るたび身に着けて、何考えてたんだろうな、あたしもあの子も、みんなみんな、まったく、などと思いながら、やはり、小さかった娘の稽古着姿を目に浮かべてひとり、笑いを噛みしめるのだった。


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